カレンダー

11 | 2003/12 | 01
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

月別アーカイブ(タブ)

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索

Amazonおすすめ とか

自動リンクでいったいどんな商品がピックアップされるのか実験も兼ねて置いてみました。 はたしてこのブログはamazon的には……。



載せてみたりする。

リンク
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
安倍 吉俊さんの画集、「グリの街、灰羽の庭で―灰羽連盟画集」

灰羽連盟に関する画集が12月25日、ついに出たというのは、実は日付が過ぎてから知った。
ターミナル駅からすぐの大きな本屋にはなくて、その後探して、ようやく見つけた。

開くと、懐かしい光景が広がっていた。
一部には同人誌や、DVDで目にしていたものもあったが、画集としてはグリの街での物語をなぞるような形で編集されていた。
ページをめくるたびに、物語が風景が、脳裏に思い出されてくる。知らないうちに涙がこぼれていた。今でも揺り動かされる感情。
レキの日記は、今になっても、まだ切なすぎる。

安倍さんの描く世界は、いつも不思議な深い色に満ちている。
灰羽たちの暮らす世界も、懐かしいような不思議な感情に満ちている。
素晴らしい世界。
それに出会えたことを、素直に喜ぼう。

スポンサーサイト
日曜日の矢口真里のオンエアで、ダイジェストでかかったときには、あまりパッとしないな思っていた。

でも昨日、新宿ヨドバシ店頭で、初回限定新年めでたい仕様が平積みになってるのを見つけたら、ついつい手にとってレジに走ってしまうという大バカな行動を……。

いや、確かに穴埋め的な曲構成とか、球数の少なさとか、ちょっと思うところはあったんですがね。それでも娘。さんよりはある程度安心して聞ける歌い手なのも、まだ確かなことではあり (苦笑)。
それに、なんでもかんでも、ゼティマ (とUFA) につぎ込んでいるわけではないし。プッチベストは、CDもDVDも見合わせたし、コンサートDVDも、真っ赤なさいたま以来手を出してないし、さくらもおとめも手を出してないし。
嗚呼、これではある意味ヲタ失格かも (^_^;) 。

で、聞きながら書いてるわけではありますが、思いっきり歌い上げてるヴォーカルはやっぱり安心できますね。でもちょっとオケに埋没してるトラックとかあったりして、それはそれで複雑……。
年末年始のヘビーローテには使われないのではないかという感じがするです。ええ。

バカと呼んでくださいまし。031230_102101.jpg

思わぬところで実感。

アマゾンで検索してみて、初めて気づいたのだけど、B・スターリング 「スキズマトリックス」、手元のハヤカワ文庫SF、初版が1987年12月で定価620円。それが今では価格940円
16年間で、こんなに値上がりしていたなんて。

まだ絶版になっていないだけ良いとはいえ……。
昨日も出勤することになったので、電車の中でちょうど読み終えた林譲治 「記憶汚染」

思い切って言い切ってしまうが、薄っぺらだ。
様々なアイデアが次々と展開するという評価もあるようだが、自分にとっては逆にそれがすべて薄っぺらに見える。比較する方を最近に再読してないので多少の危険は孕んでいるが、人類の進化を描いた、ブルース・スターリング 「スキズマトリックス」よりもぜんぜんセンス・オブ・ワンダーに満ちていない。
そこで描かれる社会が、どうにも 「へぇ~」 という程度にしか、迫ってこないのもやはり薄っぺらだ。確かにいろいろなアイデアが詰め込まれている。しかし、その描写の一つ一つも平板だ。そして技術の存在によって作り出される「作品世界」の読み手への迫り方も薄っぺらだ。そんなこともあるかもね、程度のリアリティしか持ち得ていない。
また、とある作中人物が二つの異なるシチュエーションで「泣いた」という描写があるのだが、これすらも薄っぺらに感じられてしまう。何故だろう? そこに至るまでの作中人物の心の動きが見事に割愛されているからだ。作中人物や物語じたいは動いている。しかし、そこに伴うまでの心情は多くは語られない。これが作風だといえばそれまでだが、だったらそこでそういう描写をした作者の心情は……薄っぺらだと私は評価する。

さて、先に二つのプロットラインに触れたが、実は前回に途中経過を書いた後、片方の流れの主観人物が舞台から退場するのではないかと危惧するような展開が見られた。実際にはそんなことはなく、二つの流れ各々の主観人物はある程度の時間をともに過ごすのだが、その時点で実は片方の流れの主観人物は退場しているのに等しい。
もともとが自分からは動かなかった存在で、狂言回しにもなれていなかったのだが、その後の扱いは単なる観察者にまで落ちぶれてしまう。「事件」が終わった後の存在については、別の流れの主観人物がたった二言聞かされるだけで終わってしまう。実質的な主人公は、端から片方のプロットラインの主観人物でしかなかったのだ。
ここでふと、面白いことに気づいた。
その主人公たる主観人物は女性だ。周囲にも女性が多い。妹、同僚、同級生。深く関わってくるのはいずれも女性だ。彼女の行動、職業、といったものはいずれも行動的で、改革的、そして独創的に扱われ、やがては物語の真実に到達する。
一方のプロットの主観人物は男性だ。そこに関係してくる、部下、取引先、協力者、敵、いずれも男性だ。家族はいないので、妻や子どもといった存在とも関係しない。彼の行動はつねに周囲から影響を受け (ある意味では、リアルとはそういうものでもあるのだが)、振り回され、それでいて保守的で、独断的、事件の表層部分には居続けられたが真実には至らず脇へと押しやられる。
こうした対比は多分に意識してつけられているものとも窺えるが、そこにどのような作者の無意識が関与しているのかと分析してみるのは、穿った見方というものだろうか?
どうも、この作品の隠れたテーマはそんなところに潜んでいるような気もする。

この一年間のアニメを振り返ってみると、なによりもまず「プリンセスチュチュ」しか考えられない。

不幸なことに、オンエアの初めから知っていたわけでなく、テレビ神奈川やテレビ埼玉などでの「動画大陸」として流れるようになってから、つまり「雛の章」こと2クール目に入ってから何回かが過ぎてから見始めたものだったりはしている。

もともとがクラシック音楽には少しは興味があったので、まず引っかかったのはそこからだった。「最近のアニメにしてはめずらしく、しっかりとクラシックを扱っているな」と。
それもバレエが重要なモチーフとして扱われていれば必然であったかもしれないが、見ているうちに違う面にも目が引かれるようになる。この話の世界は、誰かに作られた世界を前提に虚構内存在たちも動いている。そう、明らかにメタ・フィクションの構造を持っている。しかも、バレエの物語 ≒ 童話 がことあるごとにモチーフとして前面に浮上してくる。全体を通しては、「くるみ割り人形」と「白鳥の湖」が太い軸として一本通っているのだが、その上にさらに細かなモチーフが絡み合ってきて実に細かな紋様を浮かび上がらせている。そこまで気づいてしまうと、なかなか目を離すことが出来なくなっていた。
途中から見始めたにもかかわらず、人物の相関関係はさほど苦労することもなく把握することが出来た。そうなると、そこまでにどんなストーリーが展開されたのかが気になる。そうして「卵の章」こと第1クールのDVDを探すことにした。すると初回限定版はいずれも音楽CDが同梱されているということを知り、どうせならとそちらを血眼になって探した。
そしてDVD第1集~第3集の入手に成功。休日に見た。第1話を見て……ハマった。当初からキャラが立っているし、絵作りも丁寧だ。それに音楽の使い方も悪くない。そうして見続ける。早い段階で主人公の役割や運命が明らかになってくる。それでも健気にがんばる主人公。見続けましたさ。13話を一気に。早朝からずっと。ええ、12話から13話にかけての怒濤の盛り上がりではぼろぼろ涙していましたさ。隠すつもりもないから言い切ってしまうけど、本当にぼろぼろと。

それからはひたすらオンエアを追い続けた。ムソルグスキー「展覧会の絵」 の「バーバ・ヤーガの小屋」中間部から「キエフの大門」を丸々使い切った回には、やりやがったと驚き、再びチャイコフスキー「くるみ割り人形」をモチーフにした回では、小中千昭が好きそうな素材だよなぁと思ったり、サン=サーンス「死の舞踏」をほぼ使い切った回では、とあるキャラの悲痛なまでの心情吐露にまたもやぼろぼろと涙したり……。
はっきり言って見事にハマった。でもそれだけの価値はあった。いろいろと情報を見ていると作り手側の意気込みや努力も素晴らしいもので、今年この作品に出会えたことは本当に幸せだったと思っている。

惜しむらくは……オンエア形態のせいもあってか、今ひとつ一般に知られていないこと。完成度も高いのにとても残念でならない。今からでも、もっと大きな規模で地上波に乗せられないものか、本当にそれだけの価値はあると思う。

今日の ハローモーニング は、ハロモニ裁判だった。

娘。さんのメンバーどうしで、お互いのマイナスなところを指摘しあって、有罪・無罪を決めあう企画なのだけども、その中でのチャーミーこと石川梨華の際……。

11月のスポーツフェスティバル東京での騎馬戦で、チャーミーがマジ切れした、というのは当時のネット周りの情報で知ってはいた。けども、今日、実際に映像を目にしたら……怖い。いや、ほんと、マジで。
なにせ、いわゆるAAが、こんな→ ( ^▽^) 娘。さんなのだけども、その時ばかりは目が笑っていない。Vを見た本人曰く、「真剣だったんですよ~」とのことなのだけども、普段のイメージとは全く違う一面をのぞかせていた。

たかがファン向け企画の1コーナーのゲームと言ってしまえばそれまでなのだけども、それだけ真剣に取り組んでいる18歳の娘。さんの姿に、なにか新鮮なものを感じた一瞬だった。

初めて YMOの名前を知ったのは、近田春夫のソロ・アルバム「天然の美」だった。

ハルヲフォンでの活動直後、1978年か1979年のソロ・アルバムで、そこでYMOは3曲ほど、アレンジと演奏でクレジットされていた。そのうちの1曲、「エレクトリック・ラブ・ストーリー」(作詞は楳図かずお) は、若草恵アレンジ版と両A面でシングルになり、近田春夫がDJを務めていた「オールナイトニッポン」(JOLF) でもオンエアされた。

オールナイトニッポンといえば、YMOの曲じたいはもっと前から耳にしていたと思う。
番組でCMの時、たぶんニッポン放送からネットしている各局では流すCMの量が異なるためか、サブからはCMとは別に何らかの曲が流されていたのだと思う。そのため早めに流すCMが終わってしまったところでは、スタジオのカフが上がるまでの間、曲が流れることになるのだが、そこでYMOのファースト・アルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」 からの曲が使われていた。
誰の番組でだったかまでは覚えていないが、少なくても 「Tong Poo」 と 「Cosmic Surfin'」 のメロディが流れていたという記憶はある。

セカンド・アルバム 「Solid State Survivor」 に触れたのは、たぶん、当時創刊されたばかりの雑誌 「キーボード・マガジン」 の記事と、やはりニッポン放送の30分枠番組 「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」 だったと思う。
この番組では、毎回テーマを決めてさまざまな曲を集めてオンエアしていたのだが、その時は 「テクノ・ポップ」 がテーマになっていた。全部で8~10曲は紹介されているはずなのだが、記憶に残っているのはそのうちの三つほど。
1曲目に紹介された M (ロビン・スコット) の 「Pop Muzic」、3曲目あたりにあったはずの DEVO 「Secret Agent Man」、中間のMC明け直後に流れた YMO 「Solid State Survivor」 。
その中でも、YMOの曲、実はまだ発売前だったはずのアルバムから、それもシングルカットすらされていない曲は異彩を放って感じられた。当時、アナログ・シンセサイザーの音色に傾倒していたアタマには、他の楽曲はなにやら中途半端な楽器の使い方をしているように思えてしかたがなかった (それでも、M と DEVO はとても印象に残っていたのだが)。
そして雑誌の記事でセカンド・アルバムの発売を知り、地元のレコード屋に予約をした。だから実家にはきちんと、黄色のカラー・レコードが残っている。発売当日、うきうきしながら家に帰る途中、出会った友人にジャケットを見せたら、「なに、これ、イヤらしい」と言われたことも覚えている。

その後のことは一般にも知られている通りのこと。
あれよあれよという間に、追っかけている「もの」は大きな存在になっていったのだった。


発売日から何年かの間、クリスマスには意図して聴くようにしていたアルバムがあった。

「We wish you a Merry Christmas」、当時存在した YENレーベル (アルファレコード) から発売された、いわば企画アルバム。
しかし、参加したミュージシャンはレーベル主催の細野晴臣、高橋幸宏にとどまらず、当時絶頂期だった戸川純、ここでしか聞くことの出来なかったムーンライダーズ、サクスフォン・アンサンブル・ユニットを展開していた立花ハジメなど、今も当時も目を見張る面々が名を連ねている。

考えてみれば、半ば義務を自分に課して毎年聞いていたような気がする。
それがいつの間にか薄れると自然とパッケージを開ける回数も減り……でも、今、こうして思い出してみると、また耳にしたいと思う、懐かしい響き。

そう、もう数日ずれていれば、東京もホワイトクリスマスだったのにね。

観た。

公開当時は結局、映画館には行かなかった。
予告やら、特集やら、PRやら目にしていたら、なんとなく、中居正広演じる ピース の最後は想像がついてしまった。
それから、映画系の雑誌かなにかでシナリオを見たら、その通りだった。

さて。

その、ピースの最期あたりから後は、どうにもちゃちに思えてしかたがない。
映画館には行かないでおいて正解だったかも知れない。
それから、冒頭からもっとカットバックしまくっても良かったのではないかな、なんて思ってもしまった。

DVDとかのレンタルもせず、オンエアで観ておいて、正解だったのかも知れない。

電車の中で眠ってしまうといろいろとヤバそうだったので、持ち歩いて読むことにした。

そんなことで引き続き、林譲治「記憶汚染」
とりあえず行きの地下鉄の中で量的に半分は突破。
放置されてると思っていたエピソードの一つがフォローされていた。でも欲を言えばもう一度、後に触れてこそ完璧なのだけども……。

それから情報の操作による歴史の改変・改竄のモチーフが登場した。
ジョージ・オーウェル『1984』や、テリー・ギリアム『(未来世紀)ブラジル』なんかでも取り扱われているのだけども、ここではどういう扱いになるかも注目してみたい。

正直、最近本を読まなくなってきている。

移動手段が電車がメインだった頃ですら、雑誌チェックがメインになっていたのに、原チャリで動くようになってから書籍を持ち歩くことが激減した。それでも、美容院に行ってるときとか、病院での待ち時間では文庫本を持っていったりしているが、その程度だとたいして読み進められるわけでもない。

そんなことで、今、読んでいる最中の1冊
先月の通院の際に読み始め、実は昨日で2回目。その途中に美容院に行ってはいるのだけど、その時には別の文庫本を持って行ってしまい、現在平行しているような状態 (苦笑)。

まだ読みかけなので、簡単に触れる程度だけれども……。
二つのプロットラインが平行して進んでいたのだけども、それが一つに集約しようとしている。感覚的には、「え? もう?」というような早い段階のようにも思えるのだけども、ページ数としては3割程度? だし、第一部も過ぎてしまったし、アリといえばアリなのだろうか? でも性急なように感じてしまう。
それと、読んでいて何度か、「あれ?」と感じることもある。なんというか……描写が揺らいでいるというか、作中の状況に対する作者の予測と作り込みが甘いのではないかと思えることがところどころにある。
まだ全部を読んでいないので、そう決めつけて良いものでもないだろうが……。

とにかくも、読み終えたらもう一度考えてみることにしたい。

通院のついでに寄った地元の本屋でふと見かけた一冊

巻頭にある表題作が該当作。
ある日、世界で一斉に男女が変わってしまったら……というところから始まっている。
この界隈でのコアな人々には萌えポイントが少なくて物足りないかもしれないけども、最近の少女漫画の系譜の作風で、あっさりと仕上がった良質の作品だと思う。
これ、けっこう柔らかい言い方かも。
ハッキリ言えば、テーマ性は求めないで読んだ方が良い。たぶん、それは存在しないから。
( あるとしても、弱いと思う。)
でも、そういったものを含んでの、昨今の前述の作風が嫌いでなければ……悪くはないですからね。

最近はあまりマメに娘。さん情報を集めていないので、オンエアされるまで知らなかったのだけど、ピンで出ている(他のキャストは非娘。) のを目にしたときには、正直、いっしゅんわからなかった。

というか、Jビーフと同時にJチキンもクレジットされてるCMに、あの、逃げ出すほど鳥嫌いのチャーミーが出ているというのは……事務所は意図的? それともオファーがあったから個別売りしただけ?
いずれにせよ、家庭の食卓のセットの前で踊る演出は、かなり無難なものですよねぇ。いろいろな意味で。

手に触れた人の未来が「見える」少女と、手に触れたものの過去が「見える」少年。
そんな二人が出会ったら、どんなことが起きるのだろうか?

月刊「LaLa」に連載されてきたコミックがいよいよ次号で最終回だそうだ。
少女漫画の王道的な細やかな心情を綴りながら、能力者としての戸惑いや喜びを上手く織り込んできた連載には前々から注目していたが、ついに最終回。なんとも大きな「事件」を用意して次へと引いている。
実は今回のラストで少年が引き起こす事態は以前にも一度あったできごとの再話とも言えるのだが、少年が大きく能力を発露させるに至った経緯を知ってしまった今となっては、その心情は実に切なく響いてくる。

物語の完結を目前にしている段階なので、まだ全体に対しての評価というのは出来る状態ではない。でも、コミックならではの表現を活かした良質の作品として、どのような結末を見せてくれるのか、ひたすら楽しみに一ヶ月を待ちたい。


自分としては、ビッグコミックスピリッツでの連載はとうに終わらせる時機を逸してしまって、だらだらと続いているな、という具合に思っているのだけども、今日発売の号ではとあるセリフが気になった。

陶芸家 魯山人を評して、『あまりに多くの美しい物を見すぎ、研究をしすぎた。だからどうしても意識が先走っている。意識が先走りすぎた場合、造形力は時に弱く、嫌みに見えるものだ。』 (以上、ビッグコミックスピリッツ 2004年第4・5号 合併号より)と作中人物が語る。
これを自分なりに換言すれば、創作にあたって、表現衝動をそのまま表に出すのか、それとも技巧的なことを留意しながら表現するのかの姿勢の取り方の違いと言えるのではないかと思う。
何らかの形で「作品」を作ろうとしたら、そこには「自分はこういったことを言いたかったんだ」という表現衝動が大なり小なり存在するだろうと言うことは、表現者なら誰しも似たようなものではないかと思いたい。
ただ、ある程度いろいろとテクニックとかが分かってくると、どうしても欲目は出てくる。たとえば自分の場合、「こうしたら」とか「あんなやり方を取り入れてみたら」なんてことが頭の中を過ぎったりして、それに囚われてしまうことにもなってしまったりする。
そういった細事に囚われてしまうのは良くないのだろうか。とはいえ、「色気」を出そうとすることじたいは悪いことではないのだろうと思うのだが。やはり今の時点で言えるのは、そういったテクニックすらを無意識に使いこなせる域に達した上で、衝動に従って動く、というのが一つの理想型になるのだろうか? 果たしてそんな域に達することができるかどうかは、まったく別の問題としておくとして。



しかし、それにしても、ビッグコミックスピリッツは、浦沢直樹と細野不二彦がいなくなったら、もう読まなくても良いかな、なんて思ってしまう。どうも最近あんまり肌に合わない感覚がしてしまってるから……。

なって4回目の冬。
1年目と2年目はけっこう大きな発作になって、一番近くの大きな病院のお世話になり、去年はそんなに重くなかったので気を緩めていたら今年は9月末にどーんと大きな発作がやってきてしまった。
今年はそれまでの病院が対応が良く感じられなかったのと、ネットでも評判が芳しくなかったので、少しだけ離れたところにある呼吸器科のある大きな病院のお世話になった。
それで当初は内服ステロイド剤と気管支拡張剤 (胃薬のおまけ付き) で抑えつつ、吸入のステロイド剤に切り換え、一月前からはピークフローメーターを使い始めるようになった。

発作がひどいときに何がキツいかというと、まず夜に横になっても眠れないこと。まともに息ができなくなるわけで、少しでも楽な姿勢を探しているだけでどんどんと時間が過ぎていってしまう。それと身体を動かしてすぐ息が上がるようになるのだけども、その時ですらまともに呼吸できないのでとんでもないことになる。歩くことすらキツくなるどころか、着替えるために身体を動かすことすらできなくなってしまう。
幸いなことに、発作中に意識が遠のくといったことは今のところないけれども、夜に眠れなくて、「このまま続いていたら衰弱していくだけなのか」とか、すぐ近くのコンビニに行ってくるだけがとんでもない重労働で部屋にやっとの事で戻ってきてその後なかなかに息が戻らず、というよりもほとんど呼吸困難状態になり「このままいってしまうかも」とか思ったりもする。
この数年間でそれだけ「死」の実感が身近に感じられるようになったと思う。言葉にしてしまうと大袈裟に思えるかもしれないが、これは率直な実感だ。

なんでこんな辛気くさいことを延々と書いてきたかというと、今の自分にとっての人生観や世界観にかなり大きく影響していることだからだ。
それ以前から、人生、折り返し地点というか中間地点を過ぎたのではないか、鈴木慶一の歌う「もう半分生きちゃったね」のような感覚はありはしたが、それ以上に「これから先は、いつどうなるかわからない」という感覚が確実に自分の中にある。
それは日常の中で常に何かの裏に潜んでいることだし、ひいては自分の創作衝動の一角にもなっているのではないかと思う。少なくても拙くても作ってみたものを、世界に送り出してみようかという動機の一つにはなっていると思う。

卑小なことかもしれないが、けっこう自分にとっては大きなことでもあったりする。


TSF……Trans Sexual Fiction とも、Trans Sexual Fantasy とも言われている。
一言で言えば、性別が変化するようなストーリーのこと。この界隈では、なぜか♂→♀の方がニーズが圧倒的に高い。

アマチュアの創作活動も熱狂的な部分があり、総本山というか、一つのシンボルとして 少年少女文庫 という投稿サイトが存在している。( ここは最近では「軽薄短小」な作品が増加してきていて、ある意味では憂えるところだけども、それについてはまた後日にでも)
一方でセクト化も激しいのも事実で、各自の「萌え」ツボに従い、個人・グループ運営のサイトが多数あったりもする。絶対的なクリエーターの数は多くはないとも言われているが、このようなサイトの分散に伴い、なかなか全体的な動向は把握しにくい面があるのではないだろうか。
どうしても「萌え」というものがついて回るだけに、なかなか最大公約数的な作品を目指すのは難しいと言える。それだけ各サイトや、作家の対象・作風は多様化している。

根元的には、GIDの存在を無視することはできないが、現状では「リアル系」と呼ばれるそれらの作家 (・読者) と、ゲームなどから入ってきた人々の間には乖離があるようにも見える。まだまだマイナーな分野で、規模としてもそんなに大きくはないものではあるのだが、すでに複雑化の芽は内包していて、ある意味では危うくバランスを保っているとも言える。
また、作家的に見ればすでに作品パターンの典型的なものは大方出尽くしていて、これからはそれらをどう作品の中に取り込み、用いて新しい表現・世界を創出するかの課題はいよいよもって難しくなっていくことになるのかもしれない。

いずれにせよ、前途は洋々というわけではなく、いつ袋小路に入り込んでしまってもおかしくはないのかもしれない。しかしだからといって、この分野の魅力が皆無になると言うことではなく、考えるべきは違うところにあるのだろうと思う。しかし、それが何かを示せ、と言われると今の自分には何も出すことが出来ない。
まだまだ自分も模索している途上なのだから……。

今ごろ何故かユーリズミックスにハマっている。

リアルタイムでは、当時まだビニール盤だったLPレコードで、アルバム「Sweet Dreams」をレンタルしてきたりしていたのだけども、その頃は YMO にハマりまくっていて、シンセサイザーの音としてはおとなしめな仕上がりのアルバムは、ヒット曲の入ったもの程度にしか思ってはいなかった。

その後、何年も過ぎ、つい数ヶ月前、ふと頭の中に「Sweet Dreams」のメロディが鳴り始め、気になってしかたがなく、ついついCDを買ってしまった。
今となっては懐かしい響きなのだけども、よく聞き込むと計算されたストイックとも言えるアレンジがなかなかに気持ちよい。前々から持っていた、幻のサントラ盤とも言える「1984」とあわせて、けっこうなヘビーローテーションで聞いていた。
音色としてはシンプルとも言えるPWMをベースにしたシンセ・ストリングスが舞うように動く様はなかなかに心地よい。

その後、TSUTAYAで手にしたアルバム「Be Yourself Tonight」がさらに追い打ちをかけることになる。
アニー・レノックスのヴォーカルは、抑えた安定したものだけではなく、エモーショナルなものもこなしたということは知ってはいたが、一曲目で思いっきり叩きのめされる。
パワフルなドラムと軽快なブラス・セクションの上に乗って、ぶちまけるかのように始まるヴォーカルは、それまでのユーリズミックスとは違って、力とライブ感に満ちている。それは決して不快なものではなく、上質のロックとして良くできている。そう、実に良くできている。隠し味的なギターのカッティングや、オルガンの音が、これまたなんとも気持ちいい。

ハマった、としか言いようがない。しばらくの間、まだヘビーローテーションは続きそうな気がする。

風邪をひいて体調は悪いけれども、時間的には少し余裕が出来てきたからまずは設定から。
まだプロフィールとか完備してないし、完全な公開体制とってないのはご勘弁を……。
徐々に整備してきますから……。

ニフティのサービスとしてのココログの名称は「doubleplusungood」。とりたてて自ら、良いものですよ、とオススメするような内容ではないだろうから、あえて控えめに。
でも、ひねくれ者だからストレートにはそう言わず、ちょっと変な表現をしてみてますけども。

それでは引き続き、もう少し設定をしてしまいますかね……。

// HOME //
  1. ばら
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。