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自動リンクでいったいどんな商品がピックアップされるのか実験も兼ねて置いてみました。 はたしてこのブログはamazon的には……。



載せてみたりする。

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とある広告のコピーの一節。

「神経症と不安の時代に」

どうやら現代のことをさしているらしい。

なーにを四半世紀以上も遅れたようなことを。 ( ´,_ゝ`) 



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公私ともに様々な文章に接することが多いが、時として「読んでいて気持ち悪くなる文章」と出会うことがある。

たいていの場合、ふふふと笑って軽く流すのだが、ごく稀に、とてつもなく気持ち悪くてどうしようもない文章というものにも遭遇する。

つい先日、まさにそんな文章に出くわしたので、自分でもどこが気持ち悪いのかをしっかりと確かめるためにも、少し細かく見ていきたいと思う。

対象となるテキストは、All About にある、「2007年問題って何ですか?」という記事だ。( 以降の引用はすべて上記ページ以下からのもの。)
なお、観点としてはあくまでも文章表現として気になったところを指摘することにし、内容の正当性については一切の論評を行わない。




2007年問題ってご存知ですか?



そういえば今世紀を迎える時に2000年問題というのがありました。2007年問題とも少しからんできますのでおさらいをしてみましょう。


これが書き出しなのだけど、いきなり少し引っかかるものを感じてしまう。
第一文で「ご存じですか?」と振っておいて、次の文でいきなり違うものを持ってくる。自分ならもう少しフォローするところだ。せめて、「そういえば似たようなことばで……」とかするくらいでも違ってくる。

しかしこれはまだまだ軽いジャブの応酬程度だ。

さて、2000年へ世紀が変わる時、「99(1999年)」が「00(2000年)」となり、2000年を1900年と誤認識して色々なシステムで不具合が発生するのではと危惧されました。


内容の領域に多少踏み入れるが、2000年は20世紀だ。世紀が変わるのは21世紀になる2001年の初頭の時だ。
こういう些細なチェック漏れも積み重なると気持ち悪さを増す原因となる。

2000年問題はプログラムの年号という局所的な問題でした。ただし日付に従って業務が動くことが多く、システム全体に影響する問題でした。


若干主語が曖昧になっている。
すっきりさせるには、「ただし企業の業務は年号も含めた日付のデータに従って動くことが多く」くらいに表現した方がよい。

レガシーシステムとはいわゆるメーンフレームと呼ばれる汎用コンピューターなどの旧式の情報システムのことです。今も現役で使われています。大企業であればメーンフレームですが、中小企業ではオフコンがレガシーシステムとなります。


段落冒頭でレガシーシステムを定義しておきながら、すぐに内容を追加して変更している。こういうことをすると読み手は混乱する場合がある。

レガシーシステムと呼ばれる旧式の情報システムなど止めて、新しいシステムに変えてしまったら?話はそう簡単なものではないのです。


疑問符の後に空白を置かないと読みづらい。
唐突に疑問形の文章を放り込んでくる。もう少し前後のつながりを考慮した方が仮定の提示と、それに対する以降の反証の展開の構図がわかりやすくなる。

少し寄り道してフォートランというかなり古いプログラム言語が今も現役で使われている例をみてみましょう。



フォートラン(FORTRAN)という科学技術計算用のプログラミング言語があります。

とっても古い言語で1957年にIBMで開発された言語です。現在の色々なプログラミング言語の祖先にあたるような言語です。


「例をみてみましょう」としておきながら「あります」とつなげるのは間抜けだ。
「フォートランは科学技術計算用のプログラミング言語です。」として、次の段落にすぐにつなげることができるはずだ。

フォートランはスーパーコンピューターの現場で今も使われています。大量の計算を行う地球環境のシュミレーションや分子設計、遺伝子解析などバイオ部門などにスーパーコンピュータが使われています。とても高価なコンピュータです。


ここも文章の座りが悪い。
フォートランのことを言いたいのか、スーパーコンピューターのことを言いたいのか不明確だ。
それでも後半は、「スーパーコンピューターはとても高価なコンピューターで、大量の計算を行う(中略)などに使われています。」とすると、少しは見通しが良くなる。
要するに、ここでも主語が不明瞭なままに文章を続けてしまっているから気持ち悪くなっている。

フォートラン言語で作られたプログラムは翻訳(コンパイル)されて機械語に変換されますが、フォートランの翻訳には最適化(オプテイマイズ)という機能があり、これがとんでもない機能になっています。



スーパコンピュータに慣れていない初心者ユーザーが下手なプログラミングを作ると、結果として時間がかかるプログラムになってしまいます。ところがこの下手なプログラムを最適化して短い時間で処理するプログラムに翻訳してくれます。


ここではまず、後半の段落に注目したい。なんとまたしても主語が不在になっている。誰が最適化して翻訳してくれるのだろうか?
実は隠れた主語は前の段落にある「フォートラン言語」だったりする。とんでもない文章構造だ。

前の段落もけっこう酷い出来だ。どんな時にコンパイルされるのか不明確だ。まあ、システム・エンジニアが読む分には、「ああ、プログラムを実行する際のことだな」と見当をつけることができるだろうが、もしプログラミングに疎い人間までも読者に想定してるのだとしたら、不親切なこと、この上ない。

▼下手なプログラム

10回ループする。

 Aという配列に0を入れる。

9回ループする。

 Bという配列に1を入れる。

▼プログラムを最適化する。

9回ループする。

 Aという配列に0を入れる。

 Bという配列に1を入れる。

残りのAの配列に0を入れる。



これで無駄なループが減ることになります。これは単純な最適化の例ですが、こういうノウハウが山のようにつまった言語になっています。


一応、構造を明確にするために例も含めて引用した。さあ、この最後の文章に注目だ。
またしても主語が欠落している。これは省略だとしたら乱暴だ。いったい何が「ノウハウが山のようにつまった」ものだといえるのかを明示せずに論を進めるのは稚拙だ。

歴史が長い分その蓄積が人類の財産になっています。つまりフォートランを捨てるわけにはいきません。


そして直後の段落まで主語がないままになだれ込んでしまう。
そもそもここで段落を分ける意味がどれだけあるのだろうか。全段と一つにして主語を整理した方が、よほどすっきりとする。

中小企業が今から新しいシステムを導入するのであればメーンフレームやオフコンではなく、リナックスなどのUNIX系サーバやWindows系サーバの導入をまず考えます。


断言しちゃいました!

ところが色々とシステムを導入しているうちに気がつけばメールサーバやウェブサーバ等、社内に10台ほどのサーバが林立することになります。


この筆者、全般に読点の数がとても少ないが、ここは使い方を変えるともっとすっきりとまとめることができる。
「(前略)気がつけばメールサーバやウェブサーバなど社内に(後略)」
読点は、文章構造を考えて、読者が把握しやすいように用いるのが効果的な場合もある。

大企業でひどいところでは何千ものサーバが社内に導入され統制がとれなくなっているところもあります。そこで集中型のメーンフレームに戻す動きもあります。つまり今もメーンフレームは出荷され続けています、


この段落は最低の部類だ。

「大企業でひどいところ (中略) なっているところもあります」
自分なら、この重複は回避する。「なっている場合もあります」くらいの語彙や機転は無いのだろうか。
次の文章への繋がりも酷い。なにが「そこで」なのだろう。流れとしては「そこでは」とか「中には」といった接続の方がすっきりしている。さらには「メーンフレームのシステムに戻す」くらいにきちんと述べた方が親切だ。
「出荷され続けています」という受動態で言い切るのも自分としては気持ち悪い。筆者はメーカーの回し者として論述しているのだろうか。「メーンフレームは使い続けられています」ではいけないのだろうか。
そして注目するのは、最後が読点で終わってることだ。これは引用ミスではない。原文そのままだ。もう笑うしかない。

レガシーシステムは基幹となるシステムができた後に例えば消費税が導入されれば対応プログラムを継ぎ足したりして複雑で肥大化した状況になっています。


強引な文章構成だ。
無理矢理に例を挿入しておいて、例示の部分をわかりやすくしていない。
それ以前に、一つの文章の中でこのような展開をする必要があるかどうかを検討するべきだ。

最初は3階建てのビルでしたがプレハブの増築などで5階立てに変わってしまったのがレガシーシステムです。これを機会にビルを壊して、新しいビルに立て替えるのがシステム再構築です。



ただし、レガシーシステムが蓄積した先人の知恵は活用できません。どうしても信頼性、安定性に劣るため、補完する仕組みを考えながら取り組む必要があります。



反対にBPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)を行うチャンスでもあります。現行業務を是とせず、業務の流れから本当にその業務は必要か見直して、業務の流れにあったシステムへ移行することです。



団塊の世代が退職するまで、まだ時間があります。今後、レガシーシステムをどうしていくか考える機会にしてください。


いよいよ結末なのだが、三番目の段落が唐突で、流れの中で浮いている。
「再構築は悪いことばかりではない」と期待を持たせようとしている意図は分かるが、それに適した展開になっていない。いや、簡潔に流しすぎている。




目立った部分だけを拾い出してみたけれども、初めて目にしたときは、読みながら何度「ひどすぎる」と心の中で叫んだことか。
せめて人目につくところに公開して、読んでもらうことに意味がある文章なら、もっとしっかりとしたものを作り上げるように心がけたいものだ。

髪を切りに行った店で、シャンプーとドライ担当の女性との会話の中ででてきたひとこと。

「私、最近は夏目漱石の『こころ』を読んでいるんですよ」

まだ二十歳そこそこくらいにしか見えない彼女から、言ってみれば最近の若い人からそんなセリフが出てくるとは想像もしていなかった。
でも彼女曰く、高校の教科書に一部が載っていたのが興味をひいて、改めて読んでみようと思ったのだそうだ。

amazon.co.jp でのレビューを見ても、同じように若い世代で、教科書にあって興味を持ったという声がいくつか載っている。
そんなことを見聞きしていると、まだまだ捨てたものでもないのかな、と希望めいたものが浮かび上がってくる。
なんせ、若い世代は純文学、明治の文豪の作品なんてまともに読もうとしないのではないかと勝手に思いこんでいた部分があったから。
それに自分の場合、教科書には森鴎外の「舞姫」 が載っていて、その内容の退屈さと傲慢さに辟易としてしまった口だから。
そこをいくと、面白いと思えるものが教科書に載っていて、それでなにかに出会えた人たちは幸せなのかもしれない。きっと、作品にとっても幸せなこと。

しかし、美容院の彼女、「でも、これって、すごく長大な遺書ですよね」って、同意を求められてもコメントに困るというものですよ。
郷里にいた頃、家にあった百科事典の類を眺めていたことがあったが、その中に美術全集みたいなものもあった。

歴史に沿って整理されていた内容だったと記憶しているが、どうも自分が好きなのは印象派の時代だった。それより前の時代では宮廷画家のベラスケスが好きだった。
光と影が織りなす色合い。一枚の画面に切り取られているのは光景だけでなく、時には描かれた人々の思いや、描いている人の思いが感じられ、空気の存在を思わせるようなタッチのものが好きだった。

そんな傾向は音楽でも同じで、後期ロマン派以降、特にはやはり印象派の頃のものが好きになっていた。

ドビュッシーは何故か冨田勲のシンセサイザー演奏の方に先に深く触れ、それから数々のピアノ曲に触れていった。そしてラヴェルの色彩や、ストラヴィンスキーの華やかさ。
古典には古典の良さがあるというのはわかるけれども、それでも自分が惹かれるのはショパンやシューマンより後の世代。
まだまだ深く語ることができるほどのものは持ち合わせてはいないけれども、これからも良いものには触れるようにしていきたい。
どこかに作家が短編と長編の違いについて語っていた文書があったな、と探していたのがようやく見つかった。

それは『THE BEST OF PHILIP K. DICK』の巻末に 「著者による追想」と題された後書きの中にあった。(日本語訳は、早川書房 『ディック傑作集2 時間飛行士へのささやかな贈物』に収録。)


 長篇と比べて、短篇の利点は、主人公をその人生のクライマックスで捕らえられることにある。長篇では、主人公が生まれてから死ぬまで (またはそれに近い期間) を追っていかなくてはならない。ためしに、どんな長篇小説でもいいから、でたらめにページをひらいて読んでみたまえ。たいていの場合、そこに起こっている出来事は退屈であるか、でなければ重要性がない。それを補う唯一の方法は、スタイルである。なにが起こったかよりも、どうそれを語るかに重点をおくのだ。こうして間もなくプロの小説家はあらゆるものをスタイルで表現する技術を身につけ、内容が失われていく。しかし、短篇の場合、それでは通らない。なにか重要な出来事が起きる必要がある。才能に恵まれたプロの小説家たちが、しだいに長篇に転向していく理由はこれだと思う。いったん自分のスタイルが完成すれば、もうこっちのものである。たとえば、ヴァージニア・ウルフも、結局なんでもないことしか書かなくなってしまった。

 ところが、いま思いだしてみると、これらの短篇は、いつの場合も、それを書こうとする前に、まずアイデアを必要とした。そこにはなにかの具体的な発想──その上に物語を組み立てていくための現実のもの──が不可欠だった。つまり、「なになにのことを書いたあの話を読んだか?」という質問が可能になるような小説、内容を一言で要約できるような小説でなくてはならなかった。もし、SFの本質がアイデアであるならば (ウイリス・マクネリー博士はそう主張している)、もし、本当にアイデアが真の〝ヒーロー〟であるならば、短篇SFはSFの最高の形式であり、長篇SFはそこから枝分かれして伸びていく扇形のひろがりだといえるだろう。わたし自身の長篇の大半は、初期の短篇を発展させたか、いくつかの短篇を融合したもの──重ねあわせたもの──である。その胚芽は短篇の中にあり、ごくリアルな意味で、それがほんとうの蒸留液なのだ。そして、わたしの最高のアイデアの中のいくつか、わたしにとって最も重要なものは、とうとう長篇に書きのばすことができなかった。いくら努力をしても、それらは短篇の形でしか存在できないらしい。


蛇足ながら、この訳出文、漢字の使い方のサンプルとしても実に良いものとなっている。翻訳された文章としての美点に基づいたものが無いわけではないが、浅倉久志氏による作業だ。

それで、論旨の一つは、短編には短編に向いたアイデアがある、ということだろうか。しかし同時に短編はアイデアだけではいけないということも示唆されている。
つまるところ、主人公の人生において最大のイベントが発生する必要がある、と。
となると、短編小説にはひょっとすると長編を構想するよりも、アイデアとセンスと技術を必要とされるのかもしれない。

まだまだ精進しないと……。
今回は二年ほど前、別のページに書いた内容を再掲。


まず、コミュニケーションという場を想定して、以下はそこの中でのことに限定します。とめどもない独り言のつぶやきの中では意味のないことですからね。

自分の場合、自分の思い浮かべたイメージ(たとえ単純なものであったとしても)すら、他者には伝わらないだろう、という諦観があります。基本的には。



ちょっと細かく触れてみましょうか。単に「みかん」といった場合、相手がどんなものを思い浮かべるか、なんてのはどうしたってわからないわけです。それこそ、十人十色。個人個人のそれまでの経験や思い入れの違いによって、各人が思い浮かべるものがまったく同じになるなんてことはありえません。ここで断言してしまいましょう。ありえないんです。ありえたらそれこそ恐ろしい。教育の力とは素晴らしい(笑)。

そこで、必要に応じてもっと細かな描写で修辞していくわけです。

たとえば……早稲種の小振りな緑色の多く残るものなのか、皮が厚くてぶよぶよしているのか、腐りかけなのか、輸送時に痛んでいるのか、きれいな楕円のシルエットを描いているのかいないのか、ヘタに小さな葉が残っているとか、表面に白くなっている部分があるとか、等、等、等。



ただ、流れの上で細かくイメージを限定する必要がなければ単純な表現ですませてしまうこともしばしばです。受け手の想像するものにすべてを委ねてしまうわけです。それでも文字で表す時には、「みかん」とするのか、はたまた「ミカン」か、「蜜柑」か、それとも「オレンジ」か……それなりに思い入れを残してみたりしますが(苦笑)。まあ、諦めながら足掻いてみる。あさましい根性とみじめな姿ですね。

でも実際はお気楽なもので。like a rolling stone、あるいは水が高きから低きに流れるがごとき。想いのおもむくままだったりしてます。結局は他愛のないつぶやきと一緒だということで。


ただし重要なのは、そうした描写をするのに意味がなければやらないということ。
小説においては、なにからなにまで余すところなく書けばよいというわけではない。
意味というのは、必要さと言っても良いかもしれない。

例えばその場にいる誰かが腐っているのを気づかずに口にしてしまって体調を崩すとか (ただし多少ベタすぎ)、キャラが誰か酸っぱいものが苦手なのを説明するために言及するとか。
いちばん注意しないといけないのは、場面の描写をしたいとき。これはバランスを十分に見極めないとならない。ただのはったりとしてしか使われていないと読み手に気づかれないためには、情景描写は「その場にあるだろうというもの」をただ細かく書き並べればよいと言うものではない。
イメージを文章として固定化するのはそれだけ難しい。思いついたものをただ書き並べればお終いにできるのなら、どれだけ楽なことか。

さて、なぜそんなに苦労しないとならないか、それは論点・視点が別の方向に向いていくのでまた別の機会にでも。
あまり自作の言い訳めいたことはしないように心がけているのだけど、今回は少し禁を破ることに。

郵便妖精こと、「君に青空をあげよう」の前編では、鈴木さえ子ファースト・アルバムの中の一曲、「アメリカの Electricity Co.」からイメージを膨らませた。

それは、最後に用意した夢の世界での描写。
もともとのフレーズはこんなものだ。


絵筆を取って 捨てるものに

一つずつ色を つけて歩く

最後にテレビの 色を消して

ドアを開ける


ただし、作中では終始徹底して「色を消して歩く」ことに専念させた。
なぜなら前編で描きたかったのは絶望について。生きる望みが絶たれてもなお生きていなくてはいけない思い。
それを表すのにモチーフとして使ったのが「色」の存在だった。消して歩くもの。その意味。そして消した色の行方。その結果表される感情。
その感情はかなりストレートにセリフとして表現したものもあるが、それ以上に気をつかったのは、一人称の語りの中で絶対に一人称の代名詞を用いない表現に徹すること。これは完璧には排除できず、どうしても「自分の」「自分で」という表現だけは残ってしまうことになったが、それでもそれなりに実現できたと思っている。
そのシークエンスの次に来る夢の中では主人公は自由に動き、かつての自意識と同じように活力が見かけ上はある。でも、夢の中の出来事は主人公の心情を冷酷に自分自身に見せつける。そこに現れる絶望感。
それだけに、召喚された以降、動きの対比がかなり出せるだろうと目論んだのは、計算高すぎるだろうか?

さて、なぜ今ごろ禁を破ってまでこんなことをしてるかというと、「LaLa DX」で、そんな色をモチーフにした作品を見かけたからだ。

そこで扱われているのは、日常をモノクロームな世界として、その中での「色」の存在の意味を問う……ありがちなものと言ってしまえばそれまでだが、それでも切り口には工夫が見受けられ、読みながらついつい自作について思い返してしまったりもした。
もう一つ、「LaLa DX」では、麻生みことが「ことば」「書(道)」をモチーフに読み切りを書いていた。
表現することをモチーフとして取り込みながらドラマとして組み上げていく力はさすが中堅どころ。

さて、そんなことに気を取られてばかりではなく、いいかげん自作もまとめあげないといけない (苦笑)。
自分としては、ビッグコミックスピリッツでの連載はとうに終わらせる時機を逸してしまって、だらだらと続いているな、という具合に思っているのだけども、今日発売の号ではとあるセリフが気になった。

陶芸家 魯山人を評して、『あまりに多くの美しい物を見すぎ、研究をしすぎた。だからどうしても意識が先走っている。意識が先走りすぎた場合、造形力は時に弱く、嫌みに見えるものだ。』 (以上、ビッグコミックスピリッツ 2004年第4・5号 合併号より)と作中人物が語る。
これを自分なりに換言すれば、創作にあたって、表現衝動をそのまま表に出すのか、それとも技巧的なことを留意しながら表現するのかの姿勢の取り方の違いと言えるのではないかと思う。
何らかの形で「作品」を作ろうとしたら、そこには「自分はこういったことを言いたかったんだ」という表現衝動が大なり小なり存在するだろうと言うことは、表現者なら誰しも似たようなものではないかと思いたい。
ただ、ある程度いろいろとテクニックとかが分かってくると、どうしても欲目は出てくる。たとえば自分の場合、「こうしたら」とか「あんなやり方を取り入れてみたら」なんてことが頭の中を過ぎったりして、それに囚われてしまうことにもなってしまったりする。
そういった細事に囚われてしまうのは良くないのだろうか。とはいえ、「色気」を出そうとすることじたいは悪いことではないのだろうと思うのだが。やはり今の時点で言えるのは、そういったテクニックすらを無意識に使いこなせる域に達した上で、衝動に従って動く、というのが一つの理想型になるのだろうか? 果たしてそんな域に達することができるかどうかは、まったく別の問題としておくとして。



しかし、それにしても、ビッグコミックスピリッツは、浦沢直樹と細野不二彦がいなくなったら、もう読まなくても良いかな、なんて思ってしまう。どうも最近あんまり肌に合わない感覚がしてしまってるから……。

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